昭和47年01月18日   朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 この六十五節の所がここが分かるというのじゃなくて、是をそうだと信じれれると言う事。それが金光教の信心のまいうなら一番大事なとこですね。ま金光教の信心の全てというても良いくらいです。けどもまぁそういうその意味を含めてですね。ですから是が信じられると言う事。所謂世の中をそれこそ広う深う頂けれると言う事。中々御理解を頂いただけでは、成程合点がいきますけど、是を本当に実際の生活にすぱっとこう頂いてしまうと言う事は、矢張りある意味で年期がいる事だと思いますね。
 先日からの御理解、確かここだっと思うんですけど、ね、金光様のご信心を頂、本当に頂いたら、先ず第一に改式をしなければおられない。勿論大神宮様もいらなければ、荒神宮さんもいらないといった様な御理解を頂きましたね。ま 事実そうなんですよ。ね、それは天地金乃神様の中に、たとえばキリスト様であろうが、お釈迦様であろうが、包含されておられる事ですからね。
 だからその事実を、ここで改式をなさったり、沢山の八百万の神々様のなどを、お祭りしておる人達が、私がそれを所謂、金光大神一本に帰一するというかね、した方達のおかげを受けておられる事実を、色々この頃申しましたですね。ですからやはりね、本当にそこが、そこまでいかなきゃなりませんけれども、それまでなかなかいけません。何十年信心をしておりましても、やはり複雑な、いうならひとつの宗教、信仰観念とでも申しましょうかね、日本人の。
 是はひとつのま言い伝えとか習慣とか、ね、そういう様なものが抜け切らない。いつかも申しますようにお守りといゃね、ね、これはあのあげはしりうちじゃと。いわゆる低級神、低級霊の神様とか仏様などが、あのお守りなんかというものはご守護札ですね。あぁいうのを出すのは低級霊の間じゃと教祖は仰っとられる。れはもう大発見ですね、最近の教祖の御理解の言葉の中にあるんです。その何というですかね、見解というですか、確かにそうなんです。
 ですから本当に低級霊とか程度の低い、例えば神様などと言う様に、この大体交渉持つ事すらが実をいうたらいけんのですよね。先日も本当にあるもう八十幾つでしょうか、もうお不動様を非常に熱心な、あの当人さんがおられましてね。先日亡くなられました。息子達みんなこうして立派に。ところがね、私は低級霊に災いされると、例えばよく世間でいう、あの当人さんなんか、あの末路というものが、いつも必ず、本当に悲しいことになっているですね。
 これはもうそういうひとつの、低級な霊の支配を受けるからなんですよ。も、晩年は必ずいけませんね。特にそういうのは。息子さん達も立派に成功した方達がおられますけども、結局ですね、本当にあの何というですかね、娘さんの、から分かれていっておられるところで、かかっていっておられたという事。息子さん達がおられますけども、いうならば本当に息子さん、本当自分一人で暮らしよんなさった。もうお不動様と二人ですね、いうなら。それでお参りがあっていろいろ真教えなさる訳ですね。
 けどもとっても良い方でした。やっぱお不動様ご信心なさる方ですからね。けれども、んならあのいうなら末路は、肝心要の子供達のそれも受けることのでけないなりに亡くなられたという。しかも不自由極、その泣く泣くだろうと思いますよね。も八十幾つになって一人で生活しておられる。まこれはひとつの例ですけども、そういう意味でですね、本当に私ども、分かれば分かるほど金光様のご信心、例えば日柄方位は見るにおよばんというようなあの信心が、すっきり本当に出来ることが。
 やはり願いでなからにゃいけません。ま、そんな間はお守りさんを受けられても良いでしょう。ね。先日から本当にね、ここで長年信心しておる人の財布を忘れとった。開いて見たところが、はぁどこどこのお守りさんもありゃ、どこどこのごしんご、札も入っとるとを見てから、もうがっかりしたという事を申しましたけども。ま、信心が分かっていないのだから仕方がない。
 それをならここではね、これほどしに私が、もう本当に口をすゆうして申し上げておる事をです、ね、本当に頂いて下さったらもうすっきりさっぱり、しかも五年と十年と信心が続いておれば、この辺のところは、すっきりしなければならんのに、まだすっきりしてないというとこ。やっぱりご守護の札を財布の中に入れとるがよかごたる気がする訳です。だからあの改式、今日は私はその改式するけん、したけんでというてですね、んなら訳も分からんなりに改式したっちゃいかんですよね。
 それ何人もあります。もう合楽、椛目時代に、お参りをしてからもう素晴らしかと。こげな神様は始めてちいうごたる風で、もう本当に、一年足らずで、改式した人があるですよ。けれどもね、今、どこに行っとんなさるか分からんような方、ひとりありますね。改式したからではないのです。改式しなければおられないほどしの、信心を頂かなければだめなんです。
 だから一つよく分からなきゃいけん、ということなんですね。そこからいわゆる、いわゆるその縛られない、もうそれこそ、広々としたね、心の状態で信心がでけることになってくる訳です。いうならば、もう良いも悪いもない。もう一切全てが、私のためにあるのだと、ね、というような、それこそ世界は二人の為にという歌があるようにですね。も世界の全ての働きが、私ひとりの為にあっておるんだというほどしのおかげを頂けれるのが金光様のご信心なんですよね。
 先日壮年部会の時に、石井清さんがお話をしとりました中に、あちら勿論熱心にもちろん改式しとります。ところが弟さんが家分かれしとりますけれども、この人は信心がない。ところが、去年小学校一年生ですかね。交通事故に会われて亡くなりました。そこで、その自分の本家の方が改式しとるもんですから、ここで告別式をしてくれというので、私が祭主で告別式をさして頂きました。
 ですからお神様、なんも信心がありませんから、それであただにまぁ祭壇を設えましてから、告別式をさして頂いた。それからですね、夫婦の者が非常に熱心に信心するようになりました。とりわけ奥さんなんかは、全然信心がおかしいというような感じで、そのま、いうなら冷やかに夫婦の人達が、信心するのを見ておる様な感じでしたけれどもね、それ以来はもうお霊様を通して、毎日毎日御霊様の前で天津祝詞をあげたり、祖先賛詞をあげたりするのがもう楽しゅうなってきた。
 お話を頂くのがありがとうなってきた。もう私もしあの合楽の親先生にお葬式をしてもらって、お話を頂かなかったら、私ゃ本当に狂うとったじゃろうとあの述懐しとります。今でも。その兄弟の話をしてるんですよ。それがちょうど去年がその誠之助さんちいいます、弟が。誠之助さんの厄年だったそうですね。幾つでしょうか四十二でしょうかね、やっぱ。四十二ね、それで厄年に自分の最愛の子供を亡くするような事が起こった。ところが、今年は奥さんが厄年だそうです。
 だからまた去年の様な事があっちゃならんからというて、もうあのここの元旦祭を頂く前に高良山にお参り、所謂この辺ではたか神様といわれる神様ですからね、高良山様に、しかもあの幾らか出しますとこうお祓いやら、いろんなお祭りをして下さるでしょう。それまで受けてきてそのま厄払いですかね、厄払いのお祭りをして頂いて帰って来たという話を聞いておってね、私は本当にあの、ま、ほほえましい思いでそれを聞かして貰いました。それが皆さんの場合には私がカンカンになるでしょうね、きっと。
 あんた馬鹿じゃなかのというところでしょうけれどもですよ、ね、日頃教えを頂いとるもんなら。けれどもようやく去年、しかもその後にちょうど五十日祭を仕える時には一部屋お神様の部屋にいたしましてね、そして高橋さんが設計されまして、もう見事な御祭壇が、神様と御霊様をそれこそこんな具合で改式のでける人もありますから、ならそれで必ずおかげ頂くということではありませんです。改式したからどうという事はありません。けれども、それはしなければおられない。
 誠之助さんの場合は、もう仏様もご仏壇もなかったからね。ま、結局本家がそうだから、ま、金光教のいわば、はからずも教徒になった訳です。ね、皆さんの場合信徒です。改式しますと教徒ということになる。秋永先生あたり場合なんかも、教徒ということだ。ね、だから殆ど信徒が多いです。けども金光様のご信心頂いたら、本当はそこんとこまで、信心をひとつ分からしてもらうということは、ですけれども。
 私は今日はね、ちょっとあんまり口上が長くなりましたけれどね、日柄方位は見るにおよばんとこう仰るが、日柄方位も一辺やっぱりそれを信じられないなら、見る事が本当だと言う事です。それが信じられないなら。私がいう事が信じられないなら。金光大神の仰る事がまだ信じられないなら、不安であるならば、なら高良山にお参りをして、所謂厄除けして貰う事は、非常に有難い事なんですはあ、これで今年もおかげ頂くじゃろう厄除け、しかもこういうお祭りまでして貰ったからというて。
 何か厄除けの札をもろうてきて、家にでも張っとくことも私は良いと思うですね。ひとつの方法です。ね、けれどもこの辺の所がね、私は、すっきりとして分からしてもらう。小倉の富永先生の場合なんかもそうでしたですね。あちはもう代々ですね、厄年に亡くなられるという家だそうですです。ですからもう皆さんもご承知のように、あぁいういうならば人格者でもあると同時に、それこそ本当にほれぼれするような心の状態、心を持っておいでられるお方ですよね。
 本当にもう、それが金光大神に帰依をされるようになられたのはでっす、自分の厄年の時にとにかく金光様に奥さんがあのように熱心ですから、お参りをして見えて、ね、今年は富永先生お役に立つ年ですよと。今年を境にね、本当に神様に喜んで頂くような、お役に立つ私にならせて下さいという祈り願いを持たれるなら、もうその心配ありませんと私は申しました。厄年はお役に立つ年。本当の意味において。
 人のため世のため、ね、神様がお喜び頂ける様な事に、ひとつ役に立たせて頂こうと言う様な心の状態にならせて頂いたら、ね、是はもう厄年などは言う様な事はもうさらさら心配ありませんから、ご安心なさいと言う事で御座いましたが、もうそれ以来風邪ひとつひかない。もうあれあれがもう十年も前だったでしょうかね野口さん。も以来とにかくあの様な尊いご用、お医者さんですから尊いご用がでけて、しかもその本当ーに人が助かる事のために、いわば献身しておられるという感じですね。
 先生の去年のあの幹三郎の場合でも、富永先生がおられなかったら、幹三郎はこの世にはおられなかったでしょう。というほどしにです、お役に立つと言う事にもう生涯をかけておられる。だからもう増々健康、もう他の沢山のお医者さんのおられる中に、もうその僕だけですて、全然どうもないというのが。ね、と言う程しにおかげを頂いておられる、ま、そういう事実をいうと沢山あります。ですからそういうおかげを受けられるのが金光様のご信心です。
 けれどもお役に立ちたい立ちたいの一念が、燃えてこなければ駄目です。ね、そこに生活が、からっと変わる訳です。神様に喜んで頂くような生活。私は今朝がた起きがけにですね、起きがけというか、今日時間をちょっともう起きた時がもう三時半でした。そん時に頂くことが、あの現わすという事を頂くんです。現わす、現わすと。しかもはっきりその心眼ですね、字で頂きますのが、あらわすという字はね、新玉のあらね、新年の新という字、ひとつ書いて下さい。皆さん手帳に。
 新年の新です、ね、それから和というのは平和の和です。和賀心の和です、ね、してひらがなで「す」と書いてある。あぁ私始めてこのその表現で頂いたですね、ハハァー現すと言う事。改まるというでしょう、新年新玉の新ですよ。和する平和の和です。新和す、だから金光様のご信心はね、どう言う事かというと、私は天地金乃神様を現わす。神様を現わす生活だと思います。お道の信心の信心生活は。だからいうならそのそれは、どういうこうとね、なら私自身が、本当に助かるということなんです。
 私がおかげを頂くと言う事なんです、あっちは金光様の信心しござるから夫婦仲がええ。あっちは金光様の信心しござるけん、商売繁盛すると。なんともいえん雰囲気の中にその生活、これがすでに現わす、信心を金光様のご信心を頂いておるから、そのように現われてくる訳です。ね、なら神様を現わすと言う事は、そう言う様なことだと。それでなら金光様のご信心を頂いとって、夫婦がいつもぎっつり、がっつりいうとったり、親子の仲が悪かったり、ね、
 何時もいつもお金に不自由しておったりというなら、これは現わすと言う事にはならない。反対の事になる訳です。あっどんが金光様に参りよるばってん、喧嘩ばっかり夫婦喧嘩ばっかしよるちいうなら、これは値打ちがない。ね、だからそこに半年なり一年なり教えを頂いて、ご信心頂くようになったら、家庭が先ず円満にならなきゃなりません。信心は家庭に不和がなきがもとと仰っるですから。ね、そういう現わす。
 そこで富永先生のそれじゃないですけどもです、厄年その厄年を境にひとつ本当に生涯かけて、自分の仕事、職業を通して世のお役に立たせてもらう、世の光りにもならせてもらうようなおかげを頂きたいという一念を燃やす。お役に立ちたい立ちたいの一念を燃やす。神様に喜んで頂くような、所謂信心生活をする。だから現わすという事を例えばおかげを頂くという事という風に申しましたが、その内容とするのはです、ね、今日、私が頂いた現わすでなからにゃいかんと言う事。
 いわゆる新年の新、所謂さらと言う事。信心は日に日にさらと仰るが、自分の心が愈々生き生きとした、私はあのその歌の文句をそれから先は知らんのですけども、最近歌流行っとる歌の中に、潜り戸を(笑)何とか潜り戸を、何やったかね、格子戸をか格子戸を潜り抜けというのがあるでしょう。私はそのもとの文句を知りませんけども、その感じからですね、それこそあの潜り、潜り戸をあのー格子戸を潜り抜けて、それこそ好きな人の所にでもこう会いにでも行く初々しさという感じですね。
 だから是が大事なんです。信心には。ね、初々しいと言う事。ね、そこで私ともの心が、いつもんなら生き生きとした、初々としたと言う事がでけませんけれども、信心でいうありがたいなぁ、勿体ないなぁというその心が、初々した心なんです。生き生きした心なんです。生き生きした心でなからにゃ有り難いという心は生まれてまいりません。もったいないと言う様なものは生まれて参りません。信心をさして頂いて、教えを頂きよると、心が初々しくしてくる。
 初々しい、ね、三代金光様は、そこんところを日に日にさらでございますとこう仰った。そういうさらな心で、しかも心が和しておるという事。平和の和。ね、しかもそういう初々しい和した心でね、和らいだ心でそして現わすという。これが本当の現わすということになるのです。所謂神様を現わすのです。ね、神様を現わす時に、自分自身も現われておるはずです。ね、子供が例えば立身出世を致しましたらです、もうすでに親が現われておるのと同じ事ですね。
 ハァーあっちの親が、よっぽど立派じゃったじゃろうと言う事になるでしょうが。だから私が、例えばおかげを受けるという事は、もうそのまま親を現わす事になるのです。合楽教会が、おかげを頂きゃ親教会を現わすことになるのです。ですからどうでもやはり私ともが、おかげを頂かにゃなりません。そのおかげを受けると言う事はです、私自身が助かると言う事。一切の難儀の中から私が助かっていくと言う事。
 もう自分さえおかげを頂きゃいい、人のこったんと言った様なものではなくてです、本当にお役に立ちたい、立ちたいの一念が募ってくる。日柄方位は、見るにおよばんというところね。例えばこういう心の状態が、生まれてき、そういう意欲をもつようにならせて頂きましたらです、もうそれはもう愈々お札もいらない。是はね、どう言う事になるかというとね、もう和賀心に適する、和賀心に災いをする、例えばこれがここに悪人邪人がよしあったとしてもです。
 人間が信心によって真に有り難いなぁという心が生まれてまいりましたらね、も一切のいうならここで分かりやすくいうなら、悪人邪人とでも申しましょうか。悪魔サタンというてもよいかも知れません。そういう者がよりつく暇、すきがないのです。有り難いという心には。だから私は、金光教の信心の素晴らしさはですね、様々な宗教が、例えばそういう宗教自体が、いろんなこうひとつの縛るようなものを作ってですね、あのいたします宗教がたくさんありますがね。
 それはなるほどなら方位よけをするとか、厄除けをするとかと、ひとつのまぁまじない的なものですから、そしてまた自分の受ける気分がです、ハァー今日は今年は、もうこういう厄除けをしてもろとるけん大丈夫といったようなその心が、ま、おかげになるという場合もあるけれども。これはだから本当いうたらもう低級、実に低級な信心なんです。ね、そういう考え方は。
 折角私どもが信心をさして貰う。それこそ胸を張って堂々と、天地金乃神様金光大神のお取次によって信仰させて頂いておる。しかも稽古する事はもう和賀心。私の心の中に和らぎ喜ぶ心どんな場合であっても、心が生き生きと弾んでくる。ね、しかもその喜びがいっぱい。そしてお役に立ちたい立ちたいの一念が、燃えてくる。私はそういうね人生で有り難いと思うです。ハァーも金さえ貯めときゃよか、ほりゃもう家さえ立派にすりゃよかていそげなこつで、絶対人間の幸せは有り得ませんです。
 あるはずがないです。これはもう断言して私は申します。いゃ金さえありゃというけれども決してそうじゃありません。人間の幸せの条件にではありましても、私の心がいうならば生き生きとして、喜びに例えばまぁいうなら満ち溢れて、その溢れるものがです、お役に立ちたいお役に立ちたいと言う様なね、お役に立ちたいと言う事に、例えば社会に奉仕をすると申しますかね。神様の喜んで頂くような、お役に立たせてもらうと言う様な心の状態でいけれるね、是にはもうそれこそ無尽蔵です。
 限りないお役に立ちたいというから、お役に使うてやろうという神様の働きが始まりますから、おかげ頂くのです。先日あの古屋さんが、頂き、今ご主人がもそれこそ医者はもう二月までしかもてんといわれるほどし重体の病気入院しておられるんです。福岡から毎朝あぁしてお参りになる。一生懸命信心をなさっておられる。ね、こちらに向かってこられる車の中で、頂かれた事がね、一匹のネズミがそこにおる。
 よたよたした様なネズミ。だからもう殺そうと思や、取ろうと思やすぐ取れる様な感じだけれども、まぁこれが悪い事さえしなければ、殺さんでも良いなぁと頂かれたそうです。例えばなら私どもがです、もう本当に瀕死の重体でありましてもです、も、この氏子が、もう悪い事いっちょがしませんという事になったらね、絶対、神様でちゃですね、んなら命を神様が預かちてござる、是は全部命を天地の神様が預かってござるとですよ。ね、私どもが自分の力で生きとると思うとる。そうじゃない。
 天地の御恩恵なしにはもうここ一寸動かれない。ね、天地の御恩恵なしには、ひと時だって生きておく訳にはいけんのが、天地金乃神様の御働きなんです。ですからその氏子がです、も、いっちご悪い事しませんというたら、許して下さるのは当たり前。ね、いっちょご悪い事しませんというだけではない、お役に立ちたい立ちたいの一念が生まれてくるなら、愈々それは大事にされます事はもう絶対間違いないです。私がここで命を頂きましたら、神様に喜んで頂く様な本当にお役に立たせて頂きますから。
 例えば甘木あたりで沢山の教師がでけられましたよね。中にやはり、も、医者がね、見放したといったようなまぁだ若いみそらで、本当このまま死んでいくのかと。そこで親が信心する。そしてもしこの子が助かりましたならば、お道の教師にでもお使い下さいといったようなのが、多いという話を聞いとります。だから助かる。(笑)ですから、そう悪いことをせんというだけではなくて、神の気感に叶わぬ様な事をしないと、例えば約束でけるだけでも助けて頂くのですから。
 もう悪い事せにゃ、もう可愛そうやけんで助けとこと言う事になるのです。だけではない、お役に立ちたいという一念が燃えてくるならですね、だから信心させて頂いて、例えば合楽で皆さん御教えを頂いとられますと、私がどんなに難儀をかかえとる人でも、五日間参ってきたら人相が変わるというでしょうが。これはもう確かに現わしておられる姿です。心が豊かになる、ね、ありがとうなってくる、なんとはなしに。そして、これは私も助かられるなぁとほのぼのとしたものが、何か心の中に浮かんでくる。
 だから人相が変わってくる。だから私は本当にあのお道の信心さして貰うなら、人相が変わる変わってしまうくらいなおかげを頂かにゃだめだと思うですよね。ずるそうなこすそうな、なんとはなに冷淡な感じの、と言う様な人でもです、も、不思議にね一週間本当に通うて来た。私の話を聞いたら人相が変わるです。にこやかになるです。というほどしの素晴らしい。それをいよいよ育てていくことが、信心なんです。
 今日はそういう意味でですね、日柄方位は見るにおよばんというところをね、ただ今申しますように、どういう例えばこれひとつの学問的な御教えになってるくらいですからね。易学とか、運命学とかね、運命論とかということを申しましょう。だから、そういう例えばもうここでおしまいになる運命にある人でもです、ね、和賀心に適するのがないから、ここから新たな運命が開けてくるでしょうが。
 ですから、どういう例えば、厄年であってもです、その厄年を本当に厄年を、ありがたいに頂いて、もう今年を境にひとつお役に立つ人にならせて頂くぞ、といったような生き生きしたものが生まれてくる限りその心にはね、例えばんなら厄年には悪いことが起こってくるということになっとるのかも知れませんよ。私は知れませんけれど。例えば誠之助さんじゃないけれども、確かに厄年になら息子さんが、事故で亡くなられると言った様なことが起こっておるという事実からいうと、やっぱり今年厄年じゃけん。
 今年は厄年じゃけんと思う心が、そういう難儀を呼んだと言う事もいえましょう。けれども、そのそういう厄がです、今度お役に立つということ。お役に立ちたいお役に立つ年にして頂きたい、と言った様な念願、願いをたてるならばです、ね、もうこれに抗するものはない。是にはむかうものは何も無くなってくるです。そこでね、和賀心時代を創るということが、どんなに素晴らしい事かということが分かるでしょうが。そりゃ迷信か誠心か分かりません。ね、それは日本にない迷信が、支那にあります。
 支那にない迷信が日本にあったり、アメリカにあったりいたします。例えばアメリカの人達は、金曜日のなんとか言った様な事申しましょう。成程飛行機が墜落する時は金曜日じゃったと言った様なやっぱ多い訳なんです。だからやっぱあるかも知れませんです。けどもどういう金曜日じゃ今日は悪日じゃ悪日じゃというてもです、和賀心でなすならばです、もう是は絶対の、是に抗するものはないのです。何にもおびえる事はいらんです。いかにして、私の心を生き生きとさせて頂くか。
 いかにして私の心の中に信心の喜びが頂けるかと言う事に焦点をおいてお互いが信心の稽古をなさるならです、ね、もうそこには何にもない。お札もいらなければ、何々様もいらない事になってくるです。だからねそういう、本当に自由無碍な世界に住みたいと皆さん、思われませんですか。是に縛られた、ね、そう言う事で心の中にひっかかってしまうような、引掛りのない私は、社会世界に住みたいと思うですね。
 今日はね日柄方位は、見るにおよばんと。けれどもそれが引掛るなら、やっぱ日柄方位を見るのもよかろう。厄除けをして貰う事もよかろう。お札をちゃんとこうやって頂いとくのもよかろう。御神米を頂いとって、またそこにお札を頂くともよかろう。決して天地金乃神様がね、こげなこつしとるけんで好かんちいうちから、はねのけされるような事は決してない。ね、ですからけれどもですけれども私ども願う所がです、今日私が頂く現わすということ。ね、さらな心で自分の心が、ね、和らいでくる。
 そういう心でですいうならばお役に立ちたい、お役に立ちたいという念願を燃やすならば、ね、もうこれに抗するものは何にもない。ここんとこだけは今日いっちょ覚えといて頂きたいと思うです。例えば悪人邪人が寄り付きよってもですね、も、ここに喜びの心があったらも是には、もうそれこそもう指も触れる事はでけんのです。この喜びという心には。そういう時人間がずうっと喜べと言う事は、でけませんから、ね、そこで私どもが、そういう願いを持つということなんです。ね。
 本当に和らぎ喜ぶ心を目指す、と言う事なんです。ね、目指しておるという事だけで、そこには金光大神のお取次の働きがありますから、ね、いうなら災難がよりつくはずがありません。金光大神の大徳を持ってするのですから。それが御取次の頂いての働きということになるのです。もう是は十何年も前でしたけれど、味苦魅楽と言う事を頂きました。ちょっと書いてみてください。味というのは味の素の味ですね、みはね味の素の味という字。くは苦労の苦です。魅楽というのは魅力の魅ですね。
 魅せられるとこういうでしょう。あのみです。らくというのは合楽の楽です。味苦魅楽という御理解を頂いたことがあります。信心はだからどうでもです、ここんところをひとつ分かって、普通の信心がない間は、もうほんにもちっと楽になったら、まちっと楽になったらどげん楽になったっちゃ、楽になりたい、楽になりたいと言う事に魅せられておったです。所が信心させて頂くようになりますとです、ね、それとは反対のことに、もうそれこそ楽はせんぞというような心が生まれてまいります。ね。
 例えば皆さん、こうやって朝参りをなさったり夜に参ってくるのは、そういうひとつのはしりです。人はまぁだこげん寒かつにぬくぬく寝とるたい。ね、それこそ布団を蹴って起きて、ぇー朝参りをするというのは、もうすでにいわば苦労に、ね、苦労の味わいというものが分かってきた訳です。いわば魅苦ですね苦労の味わい。難儀の味わいその難儀の中に御神意が分かり、御神愛が分からして頂くから有り難い。
 だからそこに全然考え方が変わってくるです、ね、味苦魅楽になるです。信心させてもらいよるとほんなら金光様の信心しよるなら、楽にならんかというともう楽はせんぞという気になったら、神様が楽をさせにゃおかん、楽はさせにゃおかんという働きが始まるです。是もひとつの理があります。ここは今日は解かれませんけどね。私共が楽はせんぞうという気になったら、楽はさせずにおかんという働きが生まれてきます。
 是は絶対です。ね、だから本当に幸福になれれるための、ひとつの考え方の中にそういう味苦魅楽ということ。昨日は合楽会でした。それで皆さんどういうお話させて頂こうかと思わせて頂いとりましたら、この楽という字をね、楽という字がちょうどあやつり人形のような感じで頂くのですよ。楽という字をね。そして真ん中に白という字が書いてあって、糸へんのこれはこう書いてあるでしょう。下が木になってる。この木とこのここんところが足のようになってですね。
 そしてこの白という字の横の糸を人が糸をこう上に引っ張って、これが天竺につながっておるとじゃろうかという感じなんですよ。してこれをこうこう上から引いたりしよるけん、その楽という字がこうこうやって踊りよるところを頂くんです。ね、どういう事だろうかと思うて、もちろん中が白ということは分かりますよね、私どもがひとつ白紙になる、信心はまずそこから始めにゃだめです。ね、ひとつ白紙になって信心させてもらわなければ、本当の良いものは生まれません。ね。
 ですからもうこれはそうだと思った。木は心だと思うた一番下の。ね、だから本当にいわば、楽というかねいわば合楽。神様に喜んで下さりゃ、私どもも喜べれるような楽というものはです、ね、天地の親神様があやつんなさる、あやつられる通りの事になることだというふうに頂いた。そしてそれを具体的にどういうふうに頂くじゃろうかと思ったら、合楽の田中さんの姿をちらっとこう頂くんですよ。
 最近あのあの方の信心を見ておるとですね、もう本当にお役に立ちたい、立ちたいの一念に燃えておられるという感じがいたしますですね。神様が魅力を感じなさらんはずがないです。どうでも魅力ある人にならにゃいけません。あん奴がまた来たといわれるような人間になっちゃだめです。どんなにくうっとしとったっちゃですね、例えばんならにこっとしたようなね、あの人が見えたら、家ん中いっぺんに明るうなると言った様な、私は人柄を信心によって創らにゃいかんです。
 いわゆる魅力的な人にならにゃいかんです。信心によって。ね、それにはね、人間だけじゃないです。お金が魅せられてくるです。(笑)お金がいやちゅうたっちゃ、ひっついてくるです。物でも人でも、ね。それには例えば、只今私が申しますように、そのね、いわゆる神様がこうあやつりよんなさる糸にあやつられる素直さとでも申しましょうか。ね、そういうような昨日お知らせ頂いて、そう言う様な事をもとにして、昨日は合楽会の方達に聞いて頂いたんですけどね。
 自分の今のこの心は、神様が魅力を感じなさるどころか、向こうむきなさるじゃろうというふうに自分の心に思うことがありましょうが。だからそういう時も金光様、金光様とひとつ一心にお縋りさせて頂いてです、ね、とにかく和賀心。和賀心と自分の心を和賀心を頂く事のために精進させてもらう。どうでも心に喜びが湧かんなら、ね、それこそ心が萎れてしまうなら、ね、いっぺん身を叩いて見なさい。ね。
 お花が例えば、ね、あの例えば菊なら菊が、葉がしおれたり致しますと、実を焼いたり叩いたりするでしょうが。そしたらまた水をずうっと吸い上げるように、私共の心も叩かせて頂きますとね、そこからお恵みがここに一杯あるのですから、それを吸い上げてどこから湧いてくるか分からん、生き生きとした心やら喜びが湧いて参ります。その叩くという事はです、私は修行だと言うとります。だからそういう時には、ひと修行さして貰うというぐらいなですね、ひとつ気分にならせて頂いたらいいですね。
 そういう和賀心にならせて頂くその事をです、合楽ではもう横から縦から、あらゆる角度から和賀心にならせて頂くためにはと、私は説いておる訳です。おかげを頂くためにはとはいわんね、和賀心を頂かせて頂くための事を、私はいうなら皆さんに道づけをしてあげるようなもんです。ですから皆さんもその道を歩かなければ、和賀心は生まれません。その和賀心に、ね、私どもが願いもしない一切のおかげが伴うてくるのですから。そういう心は、日柄方位は見るに及ばぬ。あらゆる迷信的な事。
 所謂低級霊低級信なんかのその信仰宗教という言った様なものをです、私共がそれに煩わせられなくていいのです。まぁ解り易く実際に世の中に悪神邪神というのが、ある筈はありません。けどもまぁ言葉を借りるなら、例え悪魔であろうが、悪人邪人であろうがです、そういう和賀心、そういう心の状態には、寄り付く事がでけない程しの事をです、教祖金光大神は説いておられます。そこん所を今日は一つ皆さん分かってですね、本気で分かって、それが納得のいく所まで皆さんのものにして頂きたいと思うですね。
      どうぞ。